以下是收集来关於清凉殿的日文资料
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「清冷」「西凉」と书くこともある。
南北九间、东西二间の身舎で、天皇の日常生活の御所となった。(中殿と呼ばれるようになる)(しかし内裏火灾(1039年)以降ほとんど使われなくなった。)
桧皮葺の屋根で建物は间仕切りが多く复雑で、大きくわけると昼御座(ひるのおまし)や殿上などの南半分と
东孙庇のある东面が公的性质が强いのに対し、夜の御殿(よんのおとど)や弘徽殿上御局(こきでんのうえのみつぼね)などのある北半分と台盘所(だいばんどころ)のある
西庇は天皇のプライベートな空间となる。二间は天皇の护侍の
夜居の僧の诘める所になる。
殿前の庭には 呉竹、汉竹(かわたけ)红梅その他の树木が植えられていた。
正月の 小朝拝をはじめ、
叙位、 除目、官奏、诗歌管弦の游びなどの公事や行事が行われたのは主に南半分だった。
后凉殿との境に朝饷壷と台盘壷という内庭がある。
昼御座(ひるのおまし、ひのござ)
南北五间、东西二间の母屋で、天皇は日中昼御座に着座して孙庇の侍臣から政务を闻いた。
南北五间の中、第一の间は母屋への通路、第二の间は御帐のまといい、奥に天皇御座所の 御帐台がある。第三の间の奥には、
大床子三脚があり、第四の间の奥には
御厨子がある、第五の间の奥には四季 屏风を立て、日记
御厨子二脚が置かれていた。
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石灰坛(いしばいだん)
天皇が毎日伊势神宫や贺茂神社、内侍所等神镜を遥拝した所。床の高さまで土を盛り石灰(漆喰)で涂り固めてある。
石灰坛の南の一间に尘壷(ちりつぼ)があり、径60cm程の朱涂りの丸盖が置かれている。尘をはき入れるためでもあるが、地炉ともいい冬には火をおこし、また料理をしたこともある。
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落板敷
第一の板が、置いてあるだけで、打ちつけてないので、踏めば鸣るようになっていた(鸣板)。伺候した人が通过する时にこの板が鸣り、参上を知らせた。见参の板ともいう。
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夜の御殿(よるのおとど,よんのおとど)
天皇の寝室で涂笼になっている。四方に 妻戸があり、南は一间の大妻戸がある。中央に
帐台を设ける。御帐は东枕として、枕もとの
二阶厨子には、 三种の神器の剣玺を安置した。帐台の西と南には畳を敷いて
女房の座とした。部屋の四隅には
灯笼を天井から吊るし、灯火は夜通し消えないようにする。
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弘徽殿上御局(こきでんのうえのみつぼね)
藤壷上御局(ふじつぼのうえのみつぼね)
女御 が清凉殿に参られた时の控え室。弘徽殿、藤壷は、女御达の中で胜れているので、代表的に付けられたもので、その他の
女御、 更衣もここに伺候した。
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御汤殿间(おゆどののま)
天皇が御汤を召される时の女官の诘所。
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御汤殿上(おゆどののうえ)
天皇が毎朝辰の刻に御汤を召される所。浴槽の大きさは长さ五尺二寸(约157cm)、広さ二尺五寸(约76cm)、深さ一尺七寸(约52cm)、厚さ二寸(约6cm)だった。
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御手水间(おちょうずのま)
天皇が毎朝整髪し、装束を着用し、手水を使われる所。 半挿や 角盥が置いてあった。
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朝饷间(あさがれいのま)
天皇が女官の给仕で略式の食事をしたり、また髪をなおしたり、装束を改めたりする居间としても使用されたとみられる。