序章
学校に行きたい、と彼は言ったのだ。
長い『戦争』で断念してしまった学生生活を、かなうなら少しでも体験してみたいと。
だから。
(……ああ、辿りついた)
と、彼は生涯最大の感動を覚えていた。
校舎の平凡なリノリウムの廊下は、まるで王宮の広間に見えた。
二週間もの間半死半生で砂漠を彷徨い、ついにオアシスに辿りついたときでさえ、これほど深い感銘は受けていない。廊下で立ち尽くしたまま膝が震え、滂沱と涙してしまうのをこらえるのが精一杯だった。
(……本当に……俺と同じぐらい若いのが……こんなにいるんだ……)
感慨深く、徐々に湧き上がってくる興奮に、胸元を押さえる。
これほど数多くの少年少女が集う場所を、彼は軍隊以外で知らなかった。あれはあれで騒々しく、けして嫌いではなかったが、これほど明るい雰囲気はなかった。
まるで、歩く生徒のひとりひとりが眩しく輝いているように、彼——破城蒼士郎には見えた。
(すげえ……本当にすげえ……)
いくら見ても、感動が退いていかない。
もちろん、さまざまな風景は見てきたのだ。エアーズロックにもトルクメニスタンの地獄の門にも行った。そのすべてで戦って、死にかけもした。AAAランクだとか認定され、邪鬼だとか悪魔だとか四王だとか数々の異名でも呼ばれた。
だけど、そんな過去は今ここに満ちあふれている生命に比べれば、どれほどの価値があるだろう。
(俺も……ここの生徒でいいんだ……っ!)
喜びが、何度となく胸からつきあがる。
気を抜くと、今にも飛び上がってしまいそうだけど、『戦争』の後遺症でいろいろ問題が起きてしまいそうだから、我慢する。
「あ、そうだ。教室の場所——」
誰か、適当に分かりそうな相手を捜す。
だが、見つからない。あっちこっちと振り向きつつ、教えてくれそうな生徒を探すのだが、どうも避けられているように思う。
(——あ、あれ?)
気が焦り、なるべく友好的な表情を浮かべて、きょろきょろ振り向くも結果は同じ。
視線が合いそうになるたび、誰からも挙動不審気味に顔をそむけられる。感動がぎゅるんと反転してつい涙目になりそう。というか滲んだ。
そんなタイミングで、ひとりだけ声をかけられる距離にいたのだ。
「あ、あの、こんにちはっ! 2—Dの教室って分かりますか!」
やっと、言えた。
相手が、アンダーフレームの赤い眼鏡をかけたポニーテールの少女であることも、声をかけた後にやっと気づいた。異国の血が混じっているのか、眼鏡と同様に髪も赤い。整った造作だが、幾分厳しい表情で、鋭利な刃みたいな印象があった。
白いブラウスの制服が、この少女に纏われると華やかなドレスに見紛った。
数秒ほど間をおいて、眼鏡の少女はすいとこちらを指さしたのだ。
「あなた、さっきから気持ち悪いぐらいニヤニヤしすぎ。それはみんな避けるわよ」
いきなり、ど真ん中を突かれた。
「……ぁ」
思わず、口元に手をやる。
正直ゆるみっぱなしではあった。
そんなこちらの行動を見やって、どうやら話は通じると見たのか、少女がさらに言葉を続けた。
「高等部の人?」
「……あ、えっと」
蒼士郎は、現在十八歳。
校舎は中等部であるため、行き交う生徒たちの横顔はいずれも少しずつ若かった。
社会に出れば、大した年齢差ではない。しかし、特定の世代の子供と大人しか存在しない学校や、かつて蒼士郎が加わった『戦争』では極めて巨大な差異だった。それこそロートルとか、燃え尽きたとか称されるぐらいに。
「いや……俺中途入学なんで。勉強したくて来たけど、多分落ちこぼれだから、下の学年からスタートってことなんじゃないかと」
恥ずかしいけれど、それもくすぐったいような感覚があった。
落ちこぼれ。
その言葉に、淡いあこがれがある。
まるで自分がこの生活に参加しているような錯覚を味わえる。いや、今は錯覚ではなくただの現実なのだ。世界とはなんて素晴らしいのだろう。
「そう」
と、眼鏡の少女は小さくうなずいた。
「軽蔑する?」
「ううん。勉学に励む人は好きだから」
すごい。勉強が好きでいいんだ。
なんて素晴らしいのだろう学校。ちょっとこれは天国じゃないか。
「2—Dね。それならあたしの教室よ。案内するわ」
「うわ、ありがとう!」
ぶんぶんとうなずいた蒼士郎に、少女が背を向けて歩き出す。
慌ててついていくと、呆れたように口を開いた。
「そんなに嬉しいの?」
「ま、まあ」
「さっきからうなずくたび、犬のしっぽでもぴょこぴょこしてるみたい」
それから、不意に微笑したのだ。
「あたしも、昨年の中途入学だったから。だから、なんだか思い出しちゃった」
「うお、本当に! すごい偶然」
少女についていきながら、目を白黒させる。
まるで魔法だ。奇蹟が大盤振る舞いしてる。
そこから、もう一歩踏み込むには、いつもの何倍もの勇気が必要だった。
「……な、な、な、名前を訊いてもいいかな」
顔が熱くなってるのが分かった。
一緒に歩きながら、少女が答える。
「風紀委員長の、朱桐ひいろ。あなたは?」
「は、破城蒼士郎。蒼に、士に、郎らか」
「そんな真っ白な髪なのに、名前は蒼なんだ」
「う、うん」
ひょいとこちらの髪をいじられて、声がうわずってしまった。髪の色は後天的なもので、ひょっとしたら怖がられるのではと、髪染めを手に半日悩んでいたのだが、気にしないでくれるらしい。
やはり、嬉しさを隠すなんてできない。なんて素晴らしいのだろう。
「学校って素敵だなあ。本当にいいところだなあ」
「変な人」
ころころとひいろが笑う。
「じゃあ、蒼士郎くんでいい?」
「お、おう。それでいい。俺もひいろさんで」
そこまで言ったところだった。
目的の教室に辿り着いた。廊下側に張り出した札にも『2—D』と刻んである。
扉を開いたところで、さあっと血の気が引くのを蒼士郎は感じた。
「……黒蓮——」
喉から出かけた呻きを、必死に留める。
顔見知りだった。というよりも、自分をこの学校に送りつけた——
「シスター・ジル」
「あら、朱桐さん。——彼を連れてきてくれたの?」
実に穏やかな笑顔で、うら若いシスターはひいろを迎えた。
そこだけ切り取れば、おおよそ理想的な聖職者と生徒の関係としか映るまい。
ちらっと時計を見たひいろが、硬直しかけていた蒼士郎の手を握って、何人か生徒たちの集まっている席へと踏み出す。
「じゃあ、蒼士郎くん。朝礼の前にみんなを紹介するね」
「あら」
と、シスターが呼び止めた。
「どうしたんですか。先生はこちらですよ」
「……え?」
廊下を歩いてる間に、気づくべきだったのかもしれない。
ほかの生徒が纏った制服と、自分が着ているスーツの違いに。
「蒼士郎くん?」
と、ひいろが首を傾げて、
「ダメでしょう朱桐さん。先生をそんな呼び方しちゃ」
シスターが、やんわりとたしなめる。
ただし、その唇に浮いた笑みは、シスターなどというより漆黒の魔王である。罠にかかった哀れな生け贄を観察する狩人であったやもしれない。
ベルが鳴った。
朝礼のそれだとか考えるよりも早く、シスターの柔らかな手が蒼士郎のそれを握って、教壇へと引っ張り上げたのだ。
「だから、こちらです。破城先生、朝礼を始めますから早く教壇についてください。ああ、ひいろさんも自分の席にね」
くくく、とシスターの肩が揺れる。
蒼士郎は助けを求めるように、振り向いた。
「……せん、せい?」
ぎこちなく、ひいろの唇が動いていた。
騙したのか、とその眼が訴えている。
新任早々私に恥をかかせたかったのね、と真っ赤になった顔は告げている。
「い、いや、違う。そういうわけじゃなくて……」
狼狽える蒼士郎が片手を振りながら、ひそひそと耳打ちした。
「どういうことだ、黒蓮華嬢! あんたは俺を——」
「ええ、約束を叶えたわよ? 約束通り学校に行けるようにしてあげたじゃない。生徒として来たい、なんて聞いてなかったわよ?」
そこまではひそめた声で。
とどめをさすように、シスターは華やかに笑った。
「ようこそ、破城先生。——みなさん、新任の破城蒼士郎先生です。このクラスおよび数学を担当していただく予定です。お若いですけれど、海外で飛び級されたぐらいのとても優秀な方ですので、どうか安心なさってくださいね」
裏切られた!
ふうんそうですか飛び級ですか、落ちこぼれなんて話したのもまるっきりの嘘だったのね、とひいろの瞳が燃えている。
凄まじい罪悪感と絶望感で、その後のことは覚えてない。
〈第十三特区〉二十七の学院中、序列二十五位とされる私立斑鳩学院。
その新任教師として、破城蒼士郎が登録された日の出来事であった。
学校に行きたい、と彼は言ったのだ。
長い『戦争』で断念してしまった学生生活を、かなうなら少しでも体験してみたいと。
だから。
(……ああ、辿りついた)
と、彼は生涯最大の感動を覚えていた。
校舎の平凡なリノリウムの廊下は、まるで王宮の広間に見えた。
二週間もの間半死半生で砂漠を彷徨い、ついにオアシスに辿りついたときでさえ、これほど深い感銘は受けていない。廊下で立ち尽くしたまま膝が震え、滂沱と涙してしまうのをこらえるのが精一杯だった。
(……本当に……俺と同じぐらい若いのが……こんなにいるんだ……)
感慨深く、徐々に湧き上がってくる興奮に、胸元を押さえる。
これほど数多くの少年少女が集う場所を、彼は軍隊以外で知らなかった。あれはあれで騒々しく、けして嫌いではなかったが、これほど明るい雰囲気はなかった。
まるで、歩く生徒のひとりひとりが眩しく輝いているように、彼——破城蒼士郎には見えた。
(すげえ……本当にすげえ……)
いくら見ても、感動が退いていかない。
もちろん、さまざまな風景は見てきたのだ。エアーズロックにもトルクメニスタンの地獄の門にも行った。そのすべてで戦って、死にかけもした。AAAランクだとか認定され、邪鬼だとか悪魔だとか四王だとか数々の異名でも呼ばれた。
だけど、そんな過去は今ここに満ちあふれている生命に比べれば、どれほどの価値があるだろう。
(俺も……ここの生徒でいいんだ……っ!)
喜びが、何度となく胸からつきあがる。
気を抜くと、今にも飛び上がってしまいそうだけど、『戦争』の後遺症でいろいろ問題が起きてしまいそうだから、我慢する。
「あ、そうだ。教室の場所——」
誰か、適当に分かりそうな相手を捜す。
だが、見つからない。あっちこっちと振り向きつつ、教えてくれそうな生徒を探すのだが、どうも避けられているように思う。
(——あ、あれ?)
気が焦り、なるべく友好的な表情を浮かべて、きょろきょろ振り向くも結果は同じ。
視線が合いそうになるたび、誰からも挙動不審気味に顔をそむけられる。感動がぎゅるんと反転してつい涙目になりそう。というか滲んだ。
そんなタイミングで、ひとりだけ声をかけられる距離にいたのだ。
「あ、あの、こんにちはっ! 2—Dの教室って分かりますか!」
やっと、言えた。
相手が、アンダーフレームの赤い眼鏡をかけたポニーテールの少女であることも、声をかけた後にやっと気づいた。異国の血が混じっているのか、眼鏡と同様に髪も赤い。整った造作だが、幾分厳しい表情で、鋭利な刃みたいな印象があった。
白いブラウスの制服が、この少女に纏われると華やかなドレスに見紛った。
数秒ほど間をおいて、眼鏡の少女はすいとこちらを指さしたのだ。
「あなた、さっきから気持ち悪いぐらいニヤニヤしすぎ。それはみんな避けるわよ」
いきなり、ど真ん中を突かれた。
「……ぁ」
思わず、口元に手をやる。
正直ゆるみっぱなしではあった。
そんなこちらの行動を見やって、どうやら話は通じると見たのか、少女がさらに言葉を続けた。
「高等部の人?」
「……あ、えっと」
蒼士郎は、現在十八歳。
校舎は中等部であるため、行き交う生徒たちの横顔はいずれも少しずつ若かった。
社会に出れば、大した年齢差ではない。しかし、特定の世代の子供と大人しか存在しない学校や、かつて蒼士郎が加わった『戦争』では極めて巨大な差異だった。それこそロートルとか、燃え尽きたとか称されるぐらいに。
「いや……俺中途入学なんで。勉強したくて来たけど、多分落ちこぼれだから、下の学年からスタートってことなんじゃないかと」
恥ずかしいけれど、それもくすぐったいような感覚があった。
落ちこぼれ。
その言葉に、淡いあこがれがある。
まるで自分がこの生活に参加しているような錯覚を味わえる。いや、今は錯覚ではなくただの現実なのだ。世界とはなんて素晴らしいのだろう。
「そう」
と、眼鏡の少女は小さくうなずいた。
「軽蔑する?」
「ううん。勉学に励む人は好きだから」
すごい。勉強が好きでいいんだ。
なんて素晴らしいのだろう学校。ちょっとこれは天国じゃないか。
「2—Dね。それならあたしの教室よ。案内するわ」
「うわ、ありがとう!」
ぶんぶんとうなずいた蒼士郎に、少女が背を向けて歩き出す。
慌ててついていくと、呆れたように口を開いた。
「そんなに嬉しいの?」
「ま、まあ」
「さっきからうなずくたび、犬のしっぽでもぴょこぴょこしてるみたい」
それから、不意に微笑したのだ。
「あたしも、昨年の中途入学だったから。だから、なんだか思い出しちゃった」
「うお、本当に! すごい偶然」
少女についていきながら、目を白黒させる。
まるで魔法だ。奇蹟が大盤振る舞いしてる。
そこから、もう一歩踏み込むには、いつもの何倍もの勇気が必要だった。
「……な、な、な、名前を訊いてもいいかな」
顔が熱くなってるのが分かった。
一緒に歩きながら、少女が答える。
「風紀委員長の、朱桐ひいろ。あなたは?」
「は、破城蒼士郎。蒼に、士に、郎らか」
「そんな真っ白な髪なのに、名前は蒼なんだ」
「う、うん」
ひょいとこちらの髪をいじられて、声がうわずってしまった。髪の色は後天的なもので、ひょっとしたら怖がられるのではと、髪染めを手に半日悩んでいたのだが、気にしないでくれるらしい。
やはり、嬉しさを隠すなんてできない。なんて素晴らしいのだろう。
「学校って素敵だなあ。本当にいいところだなあ」
「変な人」
ころころとひいろが笑う。
「じゃあ、蒼士郎くんでいい?」
「お、おう。それでいい。俺もひいろさんで」
そこまで言ったところだった。
目的の教室に辿り着いた。廊下側に張り出した札にも『2—D』と刻んである。
扉を開いたところで、さあっと血の気が引くのを蒼士郎は感じた。
「……黒蓮——」
喉から出かけた呻きを、必死に留める。
顔見知りだった。というよりも、自分をこの学校に送りつけた——
「シスター・ジル」
「あら、朱桐さん。——彼を連れてきてくれたの?」
実に穏やかな笑顔で、うら若いシスターはひいろを迎えた。
そこだけ切り取れば、おおよそ理想的な聖職者と生徒の関係としか映るまい。
ちらっと時計を見たひいろが、硬直しかけていた蒼士郎の手を握って、何人か生徒たちの集まっている席へと踏み出す。
「じゃあ、蒼士郎くん。朝礼の前にみんなを紹介するね」
「あら」
と、シスターが呼び止めた。
「どうしたんですか。先生はこちらですよ」
「……え?」
廊下を歩いてる間に、気づくべきだったのかもしれない。
ほかの生徒が纏った制服と、自分が着ているスーツの違いに。
「蒼士郎くん?」
と、ひいろが首を傾げて、
「ダメでしょう朱桐さん。先生をそんな呼び方しちゃ」
シスターが、やんわりとたしなめる。
ただし、その唇に浮いた笑みは、シスターなどというより漆黒の魔王である。罠にかかった哀れな生け贄を観察する狩人であったやもしれない。
ベルが鳴った。
朝礼のそれだとか考えるよりも早く、シスターの柔らかな手が蒼士郎のそれを握って、教壇へと引っ張り上げたのだ。
「だから、こちらです。破城先生、朝礼を始めますから早く教壇についてください。ああ、ひいろさんも自分の席にね」
くくく、とシスターの肩が揺れる。
蒼士郎は助けを求めるように、振り向いた。
「……せん、せい?」
ぎこちなく、ひいろの唇が動いていた。
騙したのか、とその眼が訴えている。
新任早々私に恥をかかせたかったのね、と真っ赤になった顔は告げている。
「い、いや、違う。そういうわけじゃなくて……」
狼狽える蒼士郎が片手を振りながら、ひそひそと耳打ちした。
「どういうことだ、黒蓮華嬢! あんたは俺を——」
「ええ、約束を叶えたわよ? 約束通り学校に行けるようにしてあげたじゃない。生徒として来たい、なんて聞いてなかったわよ?」
そこまではひそめた声で。
とどめをさすように、シスターは華やかに笑った。
「ようこそ、破城先生。——みなさん、新任の破城蒼士郎先生です。このクラスおよび数学を担当していただく予定です。お若いですけれど、海外で飛び級されたぐらいのとても優秀な方ですので、どうか安心なさってくださいね」
裏切られた!
ふうんそうですか飛び級ですか、落ちこぼれなんて話したのもまるっきりの嘘だったのね、とひいろの瞳が燃えている。
凄まじい罪悪感と絶望感で、その後のことは覚えてない。
〈第十三特区〉二十七の学院中、序列二十五位とされる私立斑鳩学院。
その新任教師として、破城蒼士郎が登録された日の出来事であった。