创神与丧神的创神使吧 关注:1,058贴子:2,962
序章
 学校に行きたい、と彼は言ったのだ。
 長い『戦争』で断念してしまった学生生活を、かなうなら少しでも体験してみたいと。
 だから。
(……ああ、辿りついた)
 と、彼は生涯最大の感動を覚えていた。
 校舎の平凡なリノリウムの廊下は、まるで王宮の広間に見えた。
 二週間もの間半死半生で砂漠を彷徨い、ついにオアシスに辿りついたときでさえ、これほど深い感銘は受けていない。廊下で立ち尽くしたまま膝が震え、滂沱と涙してしまうのをこらえるのが精一杯だった。
(……本当に……俺と同じぐらい若いのが……こんなにいるんだ……)
 感慨深く、徐々に湧き上がってくる興奮に、胸元を押さえる。
 これほど数多くの少年少女が集う場所を、彼は軍隊以外で知らなかった。あれはあれで騒々しく、けして嫌いではなかったが、これほど明るい雰囲気はなかった。
 まるで、歩く生徒のひとりひとりが眩しく輝いているように、彼——破城蒼士郎には見えた。
(すげえ……本当にすげえ……)
 いくら見ても、感動が退いていかない。
 もちろん、さまざまな風景は見てきたのだ。エアーズロックにもトルクメニスタンの地獄の門にも行った。そのすべてで戦って、死にかけもした。AAAランクだとか認定され、邪鬼だとか悪魔だとか四王だとか数々の異名でも呼ばれた。
 だけど、そんな過去は今ここに満ちあふれている生命に比べれば、どれほどの価値があるだろう。
(俺も……ここの生徒でいいんだ……っ!)
 喜びが、何度となく胸からつきあがる。
 気を抜くと、今にも飛び上がってしまいそうだけど、『戦争』の後遺症でいろいろ問題が起きてしまいそうだから、我慢する。
「あ、そうだ。教室の場所——」
 誰か、適当に分かりそうな相手を捜す。
 だが、見つからない。あっちこっちと振り向きつつ、教えてくれそうな生徒を探すのだが、どうも避けられているように思う。
(——あ、あれ?)
 気が焦り、なるべく友好的な表情を浮かべて、きょろきょろ振り向くも結果は同じ。
 視線が合いそうになるたび、誰からも挙動不審気味に顔をそむけられる。感動がぎゅるんと反転してつい涙目になりそう。というか滲んだ。
 そんなタイミングで、ひとりだけ声をかけられる距離にいたのだ。
「あ、あの、こんにちはっ! 2—Dの教室って分かりますか!」
 やっと、言えた。
 相手が、アンダーフレームの赤い眼鏡をかけたポニーテールの少女であることも、声をかけた後にやっと気づいた。異国の血が混じっているのか、眼鏡と同様に髪も赤い。整った造作だが、幾分厳しい表情で、鋭利な刃みたいな印象があった。
 白いブラウスの制服が、この少女に纏われると華やかなドレスに見紛った。
 数秒ほど間をおいて、眼鏡の少女はすいとこちらを指さしたのだ。
「あなた、さっきから気持ち悪いぐらいニヤニヤしすぎ。それはみんな避けるわよ」
 いきなり、ど真ん中を突かれた。
「……ぁ」
 思わず、口元に手をやる。
 正直ゆるみっぱなしではあった。
 そんなこちらの行動を見やって、どうやら話は通じると見たのか、少女がさらに言葉を続けた。
「高等部の人?」
「……あ、えっと」
 蒼士郎は、現在十八歳。
 校舎は中等部であるため、行き交う生徒たちの横顔はいずれも少しずつ若かった。
 社会に出れば、大した年齢差ではない。しかし、特定の世代の子供と大人しか存在しない学校や、かつて蒼士郎が加わった『戦争』では極めて巨大な差異だった。それこそロートルとか、燃え尽きたとか称されるぐらいに。
「いや……俺中途入学なんで。勉強したくて来たけど、多分落ちこぼれだから、下の学年からスタートってことなんじゃないかと」
 恥ずかしいけれど、それもくすぐったいような感覚があった。
 落ちこぼれ。
 その言葉に、淡いあこがれがある。
 まるで自分がこの生活に参加しているような錯覚を味わえる。いや、今は錯覚ではなくただの現実なのだ。世界とはなんて素晴らしいのだろう。
「そう」
 と、眼鏡の少女は小さくうなずいた。
「軽蔑する?」
「ううん。勉学に励む人は好きだから」
 すごい。勉強が好きでいいんだ。
 なんて素晴らしいのだろう学校。ちょっとこれは天国じゃないか。
「2—Dね。それならあたしの教室よ。案内するわ」
「うわ、ありがとう!」
 ぶんぶんとうなずいた蒼士郎に、少女が背を向けて歩き出す。
 慌ててついていくと、呆れたように口を開いた。
「そんなに嬉しいの?」
「ま、まあ」
「さっきからうなずくたび、犬のしっぽでもぴょこぴょこしてるみたい」
 それから、不意に微笑したのだ。
「あたしも、昨年の中途入学だったから。だから、なんだか思い出しちゃった」
「うお、本当に! すごい偶然」
 少女についていきながら、目を白黒させる。
 まるで魔法だ。奇蹟が大盤振る舞いしてる。
 そこから、もう一歩踏み込むには、いつもの何倍もの勇気が必要だった。
「……な、な、な、名前を訊いてもいいかな」
 顔が熱くなってるのが分かった。
 一緒に歩きながら、少女が答える。
「風紀委員長の、朱桐ひいろ。あなたは?」
「は、破城蒼士郎。蒼に、士に、郎らか」
「そんな真っ白な髪なのに、名前は蒼なんだ」
「う、うん」
 ひょいとこちらの髪をいじられて、声がうわずってしまった。髪の色は後天的なもので、ひょっとしたら怖がられるのではと、髪染めを手に半日悩んでいたのだが、気にしないでくれるらしい。
 やはり、嬉しさを隠すなんてできない。なんて素晴らしいのだろう。
「学校って素敵だなあ。本当にいいところだなあ」
「変な人」
 ころころとひいろが笑う。
「じゃあ、蒼士郎くんでいい?」
「お、おう。それでいい。俺もひいろさんで」
 そこまで言ったところだった。
 目的の教室に辿り着いた。廊下側に張り出した札にも『2—D』と刻んである。
 扉を開いたところで、さあっと血の気が引くのを蒼士郎は感じた。
「……黒蓮——」
 喉から出かけた呻きを、必死に留める。
 顔見知りだった。というよりも、自分をこの学校に送りつけた——
「シスター・ジル」
「あら、朱桐さん。——彼を連れてきてくれたの?」
 実に穏やかな笑顔で、うら若いシスターはひいろを迎えた。
 そこだけ切り取れば、おおよそ理想的な聖職者と生徒の関係としか映るまい。
 ちらっと時計を見たひいろが、硬直しかけていた蒼士郎の手を握って、何人か生徒たちの集まっている席へと踏み出す。
「じゃあ、蒼士郎くん。朝礼の前にみんなを紹介するね」
「あら」
 と、シスターが呼び止めた。
「どうしたんですか。先生はこちらですよ」
「……え?」
 廊下を歩いてる間に、気づくべきだったのかもしれない。
 ほかの生徒が纏った制服と、自分が着ているスーツの違いに。
「蒼士郎くん?」
 と、ひいろが首を傾げて、
「ダメでしょう朱桐さん。先生をそんな呼び方しちゃ」
 シスターが、やんわりとたしなめる。
 ただし、その唇に浮いた笑みは、シスターなどというより漆黒の魔王である。罠にかかった哀れな生け贄を観察する狩人であったやもしれない。
 ベルが鳴った。
 朝礼のそれだとか考えるよりも早く、シスターの柔らかな手が蒼士郎のそれを握って、教壇へと引っ張り上げたのだ。
「だから、こちらです。破城先生、朝礼を始めますから早く教壇についてください。ああ、ひいろさんも自分の席にね」
 くくく、とシスターの肩が揺れる。
 蒼士郎は助けを求めるように、振り向いた。
「……せん、せい?」
 ぎこちなく、ひいろの唇が動いていた。
 騙したのか、とその眼が訴えている。
 新任早々私に恥をかかせたかったのね、と真っ赤になった顔は告げている。
「い、いや、違う。そういうわけじゃなくて……」
 狼狽える蒼士郎が片手を振りながら、ひそひそと耳打ちした。
「どういうことだ、黒蓮華嬢! あんたは俺を——」
「ええ、約束を叶えたわよ? 約束通り学校に行けるようにしてあげたじゃない。生徒として来たい、なんて聞いてなかったわよ?」
 そこまではひそめた声で。
 とどめをさすように、シスターは華やかに笑った。
「ようこそ、破城先生。——みなさん、新任の破城蒼士郎先生です。このクラスおよび数学を担当していただく予定です。お若いですけれど、海外で飛び級されたぐらいのとても優秀な方ですので、どうか安心なさってくださいね」
 裏切られた!
 ふうんそうですか飛び級ですか、落ちこぼれなんて話したのもまるっきりの嘘だったのね、とひいろの瞳が燃えている。
 凄まじい罪悪感と絶望感で、その後のことは覚えてない。
〈第十三特区〉二十七の学院中、序列二十五位とされる私立斑鳩学院。
 その新任教師として、破城蒼士郎が登録された日の出来事であった。


IP属地:广东1楼2016-02-11 12:21回复
    第一章
     誰だって、その魔術は試みたことがあるはずだ。
     見えない話し相手。
     空想の友人。
     ああ、ごっこ遊びやおままごとだってかまわない。人形やぬいぐるみを怪人やお客さんに見立てたことは、君だってあるだろう? 若かりし頃にだけ許される共通幻想というのは儚くも美しいものだ。
     つまり、創神とはそんな魔術だよ。
    ——黒蓮華嬢
     ——夢だ、と舌の感覚で分かった。
     じゃりじゃり、と口中を傷つける砂塵。
     たとえ仮面をつけていても、その程度では抗いようもない。蒼士郎たちが隠れた遺跡の他は、見渡す限り砂に満たされ、ぎらぎらした陽光が眼球を痛めつける。最先端のボディアーマーも砂漠の不快さは低減してくれなかった。
    (……またか)
     と、思う。
     何度、この夢を見ただろう。
     終わりの夢。『戦争』の夢。ひょっとしたら……青春の夢。
    「……よう、〈黒絶公〉」
     と遺跡の陰から呼びかけ、自らの仮面をずらしたのは、幼さを残す黒人の少年だった。
     ひどく当然に、彼も創神使いだった。アステカ神話にその名も高き、軍神テスカポリトカ。当時の〈解放者〉の中でも指折りの強大な『神』だった。もっとも、すでにその創神も滅びて、彼の隣で膝を屈している。
     伝承と同じく手足に鏡を埋め込まれたその神が——さらさらと、砂のように崩れていったのだ。
     創神。
     新世代の魔術によって、創りあげられた人工の神。十六歳以下の少年少女のみが行使しうる、自らの精神力そのものを『神という鋳型』によって現出させた戦術ユニット。
    「負けたなあ」
     と、少年は笑って、仮面を放り投げた。
     ほんのかすか、頬が動いただけだったけど、多分笑ったのだろうと思った。
    「雪麗の二郎真君も、カレンのパズスも負けた。こてんぱんもいいとこだ」
     半顔を血にまみれさせて、黒い肌の少年は拡声器を通した音声を聞いていた。
    『——戦いは終わった! 〈解放者〉の戦闘員たちに告げる! 投降せよ! 我らには受け入れる準備が整っている! 繰り返す! 戦いは終わった!』
     拡声器を通した声が、砂漠に響いていたのだ。
     きらきら輝く砂粒に、勝利者たちの誇らしげな投降勧告が撒き散らされる。蒼士郎たちが隠れた遺跡の上空にも輸送用タンデムローターが行き来していた。実際、もう一ヶ月も前に、『戦争』の趨勢は決定づけられていたわけで、〈管理軍〉は早くからこのための準備を整えていたらしい。手厚い用意の裏には、〈剣帝〉からの強い申し出もあったとか。
     ああ、なんて慈悲深い話だろう。
     くそったれ。
    「〈剣帝〉まで来たんじゃ、仕方ないか……。ははは、やっぱりすげえな七貌七剣」
     少年の背後には、かつての戦場が広がっていた。
     彼が護っていたエリアはとりわけ重要で、当時の〈解放者〉の残存戦力が結集されていた。数では〈管理軍〉に大きく劣るものの、精霊態以上の創神の使い手が数十人も一ヶ所に集められた例はほとんどなかったはずだ。
     そのエリアを、単騎で〈剣帝〉は突破した。
     さすがに手加減する余裕はなかったようだが、戦場跡は凄絶であった。
     あるいは隕石でも墜落したかのごときクレーターができあがり、あるいは火山が噴火したのかと想像させるほどの溶岩が、赤々とわだかまっていた。かろうじて血肉は認識できたが、それと分かるような死体はほぼ残っていない。強大すぎる創神の権能が、死体どころか遺跡も大地も無惨に粉砕したためであった。
     破壊を尽くした『神』の名は、カーリー。
     インド神話においてたやすく天地を砕くともいわれた漆黒の女神を、〈剣帝〉は顕現させるのだった。
    「……お前、学校に行きたがってたよな」
     掠れた声で、少年が言う。
     笑うと、白い歯が剥き出しになった。
    「きっと、そうしろよ。黒蓮華嬢の伝手でも使ってさ。……だって、俺らは行けなかったんだから。お前ぐらい……きちんと夢を叶えるべきだ……」
     とても眩しそうに、目を細める。
     だが、きっとその瞳はもう何も映してないのだろう。だって、蒼士郎の腹部がしとどに血に塗れていることに、彼は気づいてない。
    「なあ……蒼士郎……」


    IP属地:广东2楼2016-02-11 12:23
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       声が、途切れた。
      「——おい」
       返事はなかった。いつもの夢で、いつものように確かめて、いつものように少年はここで事切れていた。
       空が青い。
       こんなに青い空を、蒼士郎は初めて見た。一生忘れることのできない色だった。
       たまらない胸の震えに、傍らの巨影が反応した。
       ああ、夢だから、まだあれも喚起したままなのか。
       自分の隣に屹立する創神を、ひどく懐かしい想いで見やった。身体の痛みが遠いのが夢だからか、現実でもそうだったのか、もう蒼士郎は覚えてなかった。
       自分の、仮面に触れた。
       黒い砂が、ゆるりと周囲を舞う。
       創神形質・万象黒塵。
       蒼士郎の失われた『力』。この黒い砂を巧みに操るがゆえ、彼は〈黒絶公〉と呼ばれたのだった。
      (——だったら)
       思う内に、風景が形を変えた。
       夢ならではの唐突さで、遺跡から数キロほど離れた地点に、舞台は移っていた。
       彼の、最後になった戦い。
      (——〈剣帝〉)
       蒼士郎が、目の前の相手を睨みつける。
       長い髪を翻らせ、こちらも真紅の仮面をつけた創神使いであった。
       当時は、まだ多くの創神使いが仮面を使っていた。自らの精神を制御するのに、仮面は極めて有効な呪具だからだ。洋の東西を問わず、多くのシャーマンや芸能が仮面を好んだ理由はここにある。
       傍らに、女神がいる。
       カーリー。
       漆黒の身体に、四本の腕を持つ女神であった。
       人とはかけはなれた異形なのに、そのフォルムが美しかった。血と殺戮を好み、暗殺集団に奉じられた神とは思えぬほどだった。
      「戦いは終わった」
       仮面越しの低くくぐもった声が、聞こえる。
      「終わってない」
       と、蒼士郎は答えた。
       傍らで、彼の創神が走った。
       対して、〈剣帝〉の操る女神もまた、その剣を振るった。
      (——〈剣帝〉)
       黒い女神の剣は最初凄絶たる氷の嵐を放ち、次は真逆に煌々たる炎を巻き上げた。
       そのたび、がちんと音をたてて、女神の顔が入れ替わる。
       カーリー。
       創神形質・七貌七剣。
       本来、創神に許された能力はひとつかふたつきりである。鋳型となる神にいくら多くの伝承があったところで、再現するのは使い手の精神に過ぎないからだ。使い手が信じるように、信じられるようにしか、『神』というカタチも存在できない。
       だが、この創神は「魔力を秘めた剣を使い分ける」という能力に特化することで、この限界を大きく飛び越えたのだ。
      (——〈剣帝〉!)
       かろうじて、蒼士郎は耐えた。
       彼の創神の支配する黒い砂が、障壁のように周囲へ張り巡らされていた。
       漆黒の渦の中で、彼はシュプレヒコールを聞いた。
      『創神使いを解放せよ!』
       ああ、〈解放者〉の中核となったフレーズだ。
       かつて、その声を背に戦った。お題目を信じていたというよりも、きっとすがっていたという方が正しい。
      『創神使いは管理されるべきだ』
       きっと、〈管理軍〉の言い分も分かっていた。
       社会に超人がいてはならない。厳密に統制され、無害化された形で社会に組み込まれてこそ、創神使いという魔人は初めて人間としての権利を得られる。管理されぬ過剰な力は、ただ社会を壊すのみ。
      (——そうなんだろう——?)
       だから、自分たちは争いあった。
       互いに許せないことを抱えて、自らの『神』に託してぶつけあった。
      (——お前もそうなんだろう——?)
       夢から浮上しつつあるのを、蒼士郎は感じた。
       いくつもの過去が混じり合った幻想から、自分の意識が剥離しつつあった。つかのま戻された創神も、好敵手も、すでに遠ざかりつつあった。
      (——答えてくれよ、〈剣帝〉——)


      IP属地:广东3楼2016-02-11 12:24
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         手を、伸ばす。
         ふと、思い出した。
         だから、学校に焦がれたのだと。
         当たり前の少年少女が当たり前に過ごしているという、そんな時間に憧れたのだと。
         できたら、自分もそんな生徒のひとりとして加わってみたいと——。
        「……ふぁ……」
         あくびを噛み殺し、蒼士郎は職員室の机から顔を持ち上げた。
         ばさばさと、プリントが落ちる。
         どうやら数分ほど眠ってしまっていたらしい。多分、昨日徹夜で授業のプリントなどをつくっていたせいだろう。放課後のホームルームもどうにか終わり、無人の職員室に戻ったところで緊張が解けてしまったのだ。
         教師就任から、もう二ヶ月が経っていた。これだけの時間が経てば、人間否が応にも環境に順応するもので、白い髪の青年の生活もひとまずの安定を得ていた。。
        (……あんなこと、思ってたんだよな)
         頭を押さえ、ため息ひとつ。
         幸い、まだほかの職員は戻ってないのか——あるいは新人の蒼士郎を優しく見逃してくれたのか、職員室は無人のままだった。〈特区〉には天才肌で飛び級を繰り返した教師も比較的多いらしく、蒼士郎の存在も比較的早々と受け容れられたものだった。
         ただ。
         けして、この生活を気に入ったわけではない。
         散らばったプリントを掻き集め、無理矢理引き出しに詰めてから、立ち上がった。
        (なんで……こうなったんだ……)
         ぎりい、と歯ぎしりがこぼれる。初夏という季節も憎いし、このスーツも憎い。だいたいスーツとネクタイという組み合わせからして最悪だ。砂漠の戦場だってもう少し機能性のある服装が当たり前だったのに。
         廊下に出た。
         日差しの眩さに目を細めたところで、窓の向こうから大声が湧き上がった。
         ちょうど放課後の部活が始まったところらしく、横合いのグラウンドから運動部の掛け声がどよもしていたのだ。初夏の太陽に似つかわしいその爽やかな響きは、まるで自ら青空を押し上げているようだった。
         誰かが打った、金属バットの音。
         かすかに響くトランペットは、吹奏楽部のものだろう。
         ネクタイの息苦しささえ忘れてしまいそうな、いっそ切ないほどに輝かしい光景。
        「……ああ……いいよな……」
         再びこぼれる、憂鬱のため息。
         怒りの青さ、また苦さ。俺はひとりの修羅なのだ。
         古い詩人が筆にした一節が自然と胸の内を流れて、なおさら蒼士郎は虚しかった。
        (なんで……俺は、あっち側じゃないんだろうなあ……)
         いまだに、心には学校という場への憧れが燻っている。
         ただ、その憧れが深いほど、心を傷つけるというだけの話。
        「——あ、破城先生、お疲れさまです!」
         ばたばたと廊下を走り込んできたのは、担当しているクラスの生徒たちであった。
         帰りのプランでも示し合わせていたのか、全員からいかにも幸せそうな雰囲気が伝わってきた。さぞ学生生活を満喫しているのだろう。
         にこにことした笑顔に耐えきれず、思わず視線を逸らす。
        「いいから走るな」
        「ごめんなさーい」
         片手をあげてばたばた走り去っていく影を見送り、蒼士郎はこめかみを揉む。
        (ああ、もういいかげん諦めろよ俺……)
         切り替えは重要だ。とりわけ戦場ではそうだった。命を賭けた体験が精神年齢を上昇させるわけではないが、幾分か達観した性質を形成したのは確かだろう。
         あるいは、諦観と言い換えてもいい。
         求めることは重要だが、手に入らないと分かったならばさっさと切り上げることはもっと重要だ。
         そうした場所で、自分は生きてきたのだから。
         だから、
        「……頭痛でも、してるんですか?」
         不意に、冷たい声音がかけられた。
         その響きに、半ば条件反射的に喉がごくりと鳴る。油の切れた歯車よろしくぎりぎりとぎこちなく振り返り、予想通りの人影に目を見張る。


        IP属地:广东4楼2016-02-11 12:24
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          ——そして。
           途中で、蒼士郎はふと空を見上げた。
           付属の教会へと続く、校舎裏の壁だった。
           その壁の屋上近くから根を伸ばしたかのように、ちいちいと声をあげる小鬼を蒼士郎は知覚したのであった。
          「あ……雑神じゃねえか」
           周囲に人影がないのを確認して、蒼士郎は軽く跳躍した。
           ほんの十メートルほど。
           近くの窓枠に指をひっかけ、壁に根ざしていた小鬼をひょいと拾い上げる。〈特区〉の性質上、とりわけ学院内にはよくこの手の『神』が凝るのだ。
           あえて分類すれば、自律型の虚霊態とでもなるだろうか。
           自分が——失った能力。
           握りしめると、小鬼は霧のように消えていった。
           このように、認識できれば蠅のようなものだが、まったく見えない者や対処を知らない者は、うっかり取り憑かれてしまうこともある。疑心、暗鬼を生ずなどというが、こうした雑神は人の思考を濁らせがちだ。学生生活にはふさわしくあるまい。
          「さて」
           と、首の裏を叩き、地面へと危なげなく着地する。
           それから、実に嫌そうに、教会に向き直った。
           挨拶もせずに門を開き、聖堂の隅へと足を向ける。
           簡素な扉とカーテンで区切られた、ごく小さな部屋である。その小さな部屋が、内側でさらにふたつに分割されており、中間には腰ぐらいの高さで仕切りが設けられていた。
          「あら、どうかしたの? 思ったより遅かったけど、こっそり生徒といいことしてた? あらあら就任二ヶ月にして淫行教師爆誕?」
          「っざけんな」
           歯を剥き出して、蒼士郎は仕切りの向こうの相手を睨みつける。本来はこの仕切りにカーテンがひかれるはずなのだが、今は思い切りまくりあげられ、蒼士郎も相手のシスターも互いに丸見えになっていた。
           ちら、とさきほどの校舎裏の方向へ視線を投げて、
          「また、雑神が凝ってたぞ。最近管理なってないんじゃねえのか」
          「いいでしょ。そのためにあなたを雇ってるんだから」
          「掃除屋か俺は」
          「気づいてなかったの?」
           歯を剥き出した蒼士郎に、ころころとシスター・ジルが笑った。
           一見しての年齢は蒼士郎より、ひとつかふたつ下か。鼻のあたりに淡いそばかすがあって、にまにまと浮かべた笑顔の印象的な少女である。
          「——つうか、なんでいつも懺悔室なんだ」
          「誰にも聞かれなくていいでしょ。御飯だって食べ放題だし」
           そのシスターの手前に——ひどく罰当たりなことに、ほかほかと湯気を立てるタンメンの器が置かれており、実に幸せそう少女は麺をたぐっているのであった。
          「うーんデリシャス。八来軒の店主ってばまた腕をあげたわね」
          「……それ、ひょっとして学校に出前してもらってんのか」
          「ええ。放課後なら結構バレないものよ? だいたいタンメンなんて日本にいる間しか食べられないんだから、精一杯堪能しておかないと♪」
           大いに胸を張るシスターに、蒼士郎はうんざりといった顔を隠さなかった。
           普通ならば手伝いとしてあちこちを掃除させられているぐらいの年格好なのだが、この少女に限ってはまるで教会の主という趣がある。実際その通りであり、むしろ斑鳩学院のかなりの権力がこの少女に握られているのだと知っている者は、はたして学院内で十指に満ちるかどうか。
           生徒たちに親しまれた名前は、シスター・ジル。


          IP属地:广东6楼2016-02-11 12:26
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             しかし、蒼士郎の知る名は違う。
             黒蓮華嬢。
             二年前の『戦争』ではそう呼ばれていた魔女だった。
            「で、なんで呼び出したわけだよ」
            「何言ってるのよ。あんたからの定期報告が出てないからだけど」
             ちゅるると麺を吸い込み、シスターが鼻を鳴らす。
            「別に、報告するようなこともねえよ」
            「そう? 雑神も凝ってるわけだし、創神に目覚めた生徒とか出てきてない? 〈管理軍〉に新人かっさらわれたりしたら、ちょっと噴飯ものよ」
            「知ったことか」
             そっぽを向いた蒼士郎を前に、一旦シスターが箸を器に置く。
             年頃に似合わぬ色気を眦に滲ませ、三本の指を立てた。
            「この学院では、常時とある三つを基調とした勢力が睨み合っている。蒼士郎だって知ってるでしょう?」
            「…………」
            「——〈管理軍〉。まあ前の『戦争』の勝者よね。聖霊教主体で、創神使いを抱える中では最大派閥。〈特区〉の運営にも深く関係していて、おかげでこの都市の各所には聖霊教の象徴や結界が張り巡らされてるわ。できたら近寄りたくない石頭集団」
             シスターがそれでよいのかという暴言を放ちつつ、薬指が折られる。
             蒼士郎も分かり切った話はやめろとは言わない。これがある種の通過儀礼だと、どちらも了承していたからだ。
            「——〈解放者〉」
             中指が折られた。
             一瞬だけ、蒼士郎の眉が動いた。
             しかし、それだけで少年教師は黙ったままだ。
            「逆に、『戦争』で負けたところね。内部的にはアジアから南米、南欧の多神教ごたまぜ。現在は世界各地でゲリラ戦を展開中。〈特区〉のあちこちに出てきては、〈管理軍〉やらその息がかかった派閥に喧嘩を売ってるわね。ある意味で『戦争』に負けたことが、対立と問題を根深くしたともいえるわ。ネズミなら頭を砕けば死ぬでしょうけど、雑草はひとつずつ引き抜いても、根っこが残ってれば生えてくるもの」
            「そんな風に追いつめたのは〈管理軍〉だろう」
            「ゲリラ戦は、いつだって追い詰められた側の選択だものね」
             どこか感慨深げなシスターの声を聞き流しつつ、蒼士郎はただ不機嫌そうに腕を組んでいる。
             気にせず、シスターは続けた。
            「——最後に〈ギルド〉。前の戦争でどちらにもつかなかった日和見主義者。まあ所詮は互助組合でしかないから、どっちかにつくほどの信念がなかったのよね。逆に言うと、日和見してくれるだろうとは両方から信頼されていた。おかげで、〈管理軍〉と〈解放者〉に何らかの落としどころをつくりたい場合、だいたいうちに依頼が回ってくるわ」
             いしし、とシスターが笑う。
             さきほどのあだっぽさはどこへやら、今度は齧歯類みたいなマスコットじみた笑い方だった。表情豊かというよりもころころと人格を入れ替えてるような、独特の印象がシスターにはあった。
             ああ、そうだ。
             必要なら、彼女はその人格を再び仮面みたいに付け替えてみせる。
             聖職者にも。武器商人にも。はたまた、遙かに恐れられた魔女としても——。
            「おかげで、おまんまの食い上げにはならないわけだけどね」
            「商売繁盛で、何よりだ」
             半ばは嫌みで言ってるわけだが、シスターは気にした風もなく唇の端を吊り上げ、ちょんちょんとこちらを指さしてきた。
            「そういう〈ギルド〉からのお目付役もそろそろ来そうな案配なのよ。あなたも依頼のひとつふたつ受けてみてもいいんじゃない?」
            「絶対しねえ!」
             断固拒否して、蒼士郎がふんがっと腕を組む。
            「……つうか、なんでよりにもよって教師で登録しやがった?」
            「だって、生徒より教師の方がいろいろ権限あって便利じゃない。〈剣帝〉〈獅子王〉と並び称された四王のひとりが、こんなところで教師をやってるって設定も乙なものでしょ? 何? 用務員さんとかの方がよかったの?」
            「っざけんな! もう帰るぞ」
            「あ、そうそう、大したことじゃないんだけど」
             じろっ、とシスターの瞳がこちらを睨めつけたのだ。
            「……あんた、最近何か隠してない?」
             正直、ぎくっとした。
             隠している。
             破城蒼士郎は、とある事実を、シスターに隠している。
            「なんにもないよ、そんなの」
             かろうじて平静のまま、肩をすくめた。多分うまくいったはずだ。
            「そっか。なんか、〈管理軍〉が昔のデータを洗い直してるそうなのよね。こっちに漏れてきた中に、ちらちらと四王とかのデータが混じってたから、ひょっとしたらあんたに接触してるかもと思ったんだけど」
            「あいにくだったな。……じゃあ、今度こそ帰るぞ」
             しらばっくれて、無理矢理立ち上がる。長く話せばボロがでるのは必定だ。だったら、少々怪しまれようが、そそくさと逃げ出した方が傷は浅い。
            「あ、これいらないの?」
             と、シスターが仕切りの小窓から、小さな物品を差し出した。
             アンティークっぽい懐中時計だった。丈夫そうで無骨な外装と、いくつもの歯車を噛み合わせた洒脱な時計盤とが、相反するようでいながら不思議な調和を見せていた。時計盤には至極小さな貴石がはまっており、これも懐中時計の雰囲気によく似合っている。
            「神話結晶が故障したとかいうから、一応新しいのいれたついでに、昔の基準で調整し直しておいたわよ?」
            「……礼は言っておく」
             むしりとるみたいに取り上げて、踵を返す。
             背中に、これが最後とばかりに声がかかった。
            「……創神は、まだどれぐらい使えるの?」
            「知っての通り、三割ぽっちだよ」
             青年が嫌そうに手を振ると、シスターもそれ以上追及することはなかった。
             教会から蒼士郎の気配が消え去った後、うーんと懺悔室の狭い天井へ手を伸ばして、ストレッチする。
             それから、
            「……ねえ、蒼士郎?」


            IP属地:广东7楼2016-02-11 12:26
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               いなくなった席へ、呼びかけた。
               木製の椅子にほんのわずか残ったぬくもりが、蒼士郎本人であるかのように。
              「確かに面白半分よ。私はいつだってそう。神様に祈るのも何かを信じるのも面白半分。心底から何かを信じたことなんて一度もないし、これからも変わらない。きっと私は一生中途半端で生きていくのよ」
               と、囁く。
               さきほどのあだっぽさも重苦しさもなりを潜め、今のシスターはひどく自然体に不在の席を見据えていた。
              「でもね。もう半分は——」
               遠いどこかを見つめるような瞳であった。
               あるいは、終わってしまった過去を物語るような声音であった。
              「——あんたが、この街で何かを見つけられたらいいね」


              IP属地:广东8楼2016-02-11 12:26
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                日が暮れると、〈第十三特区〉の東半分では大きく人口が移動する。
                 おおよそ東半分がいくつも建ち並んだ学園群、西半分が学生寮やマンションを主体とした住宅街という具合になってるからだ。もちろん北部や南部にはまた別の事情があるし、細かく見れば〈特区〉ビジネスに乗っかったさまざまな組織や営利団体が食指を伸ばしているわけだが、最も〈第十三特区〉らしい特徴がこのふたつの地域に表れていると言えるだろう。
                 蒼士郎が戻ってきたのは、住宅地のメインから北に徒歩十分ほど歩いたゾーンだった。公園や美術館といった文化施設の数が急に増える、景観保護区である。
                 新築と思しい豪奢なタワー型マンションが、そこに屹立していたのだ。
                「…………」
                 視線を入り口のカメラに向けると、コンマ一秒で網膜の照合を終えたセキュリティが、特殊金属製の扉を開放して青年を迎え入れる。
                 お辞儀したコンシェルジュに手をあげつつ、最初に並んだエレベーター群——ではなく、さらに奥の特別エレベーターへと足を向けた。こちらもボタンやカードは必要なく、面倒くさそうに一瞥するだけだった。
                (まあ……建物だけは立派だけどさ)
                 豪奢さと裏腹に、蒼士郎の気分は陰鬱に陥るばかりだ。
                 つまるところ、こんなものは『檻』だろう。かつては三組織のバランスさえも揺るがした異能者を傷つけないためだけの檻。とっくの昔にそんな価値は失われているのに、大切に包装されて、リボンまでかけられているかのようだ。
                 社会は、こんな欺瞞でできあがっている。
                 自分が戻りたかったのは、こんな世界だったろうか。何十人も何百人もが命を擲って、勝ち取りたかったのはこんな世界だったろうか。
                 乗り込んですぐにエレベーターが上昇しはじめた。音ひとつなく、余計な圧力を搭乗者に加えない絶妙な加速度と、目の前に広がる美しい夜景は、それだけで使用者を贅沢な気分に浸らせるほどだったが、蒼士郎の慰めにだけはならなかった。
                 扉が、開く。
                 その途端、
                「お帰りなさいっ!」
                 元気のよい声とともに、ショートカットの少女が玄関へ駆け寄ったのである。
                 おおよそ十三歳ほど。小柄な身体の内側から、輝きが溢れるかのような年齢だった。
                「また来たのか」
                「はい先生! 今日の料理はすごくうまくできたと思うんです!」
                 ニコニコと笑って、真っ白なエプロンを翻させる。
                 確かに、部屋の廊下にもほかほかと美味しそうな匂いが漂っていた。
                 こちらが帰ってきそうな時間を見計らっていたらしい。時間を調整するのも料理のスキルだが、この少女は一週間ぴたりと蒼士郎の帰還に合わせていた。
                「……創神も落ち着いたのか」
                 と、視線を横に傾ける。
                 そこには、何もない。
                 いや、いるのだが、蒼士郎のようなある種の霊感を持った者にしか認識できない。
                 少女——七星悠香の肩には、虹色のオウムが止まっていたのだ。
                「ソーシロ、スゴク、マヌケナカオ! マヌケナカオ!」
                「黙れくそ!」
                 ぱたぱたと羽ばたく創神へ、噛みつくように手を伸ばして、その途中で身を張った悠香に阻まれたのである。
                「だ、駄目です。トトは生まれて一週間なんですから!」
                 悠香が、あわててふたりの間に割って入る。
                「創神に、生まれてからの時間が関係あるか!」
                「で、でも、私は生まれたときに立ち会ってますから……あのときの、破城先生には、本当に感謝してます」
                 後半をはにかむように言われて、蒼士郎の動きが鈍った。
                 少しだけ、青年の脳内も時間をさかのぼったのだ。
                 一週間。
                 彼女とその創神に遭遇したのは、つい先週のことだった。


                IP属地:广东9楼2016-02-11 12:27
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                   ——あれは、学校の屋上でのことであった。
                   階段の裏の壁に、いつものように蒼士郎はしゃがみこみ、背中をもたれかけさせていた。
                  〈第十三特区〉に来てから、蒼士郎が常駐しているのはたいていそこで、ひたすら青空を睨むか昼寝するかで担当教科以外の時間を潰しているのだった。まあ、職員室の他教師も一回り以上若い蒼士郎と共通する話題などないわけで、こうした行動も目をつむってもらっている。
                   その日も、うつらうつらと徐々に眠気に身を任せようとしているときだった。
                   不意に、叫び声が聞こえたのだ。
                  「ご、ごめんなさいごめんなさい! だから暴れないで!」
                   最初は、いじめの現場か何かかと思った。
                   しかし、青年の霊感は——別のものを認識した
                   ひどく曖昧模糊とした、煙のような霊体が、少女を取り巻いていたのだ。
                  「ああ……創神の初期暴走か」
                   ひさしぶりに見た。『戦争』では、初期教習で嫌というほど立ち会った光景だった。
                   もっとも、『戦争』でも蒼士郎は常に教官側であった。思えば、一応教師っぽい態度をとれるのも、そうした経験のためかもしれない。
                   この〈特区〉の本来の機能からすれば、そうした人間が現れるのも当然だろう。
                   放置したかったが、これで騒ぎが広がれば、自分の安住の地が奪われるだけだ。
                   ため息ひとつで壁から離れて、向き直る。
                  「先生?!」
                   ぎょっとした顔で、少女もこちらを振り向いたのだ。
                  「近寄らないで! あ、あの、見えないかもしれないけど、へ、変に思われるかもしれないけれど、ここに、おかしなバケモノがいて——」
                   少女が喋り終わるまで、霊体は待たなかった。
                   拳が、ごおと唸った。
                   命中すればただではすむまい。人間からは触れられないが、創神からは別だ。たとえなりそこないであっても、その破壊力はたやすく岩石程度粉砕する。少女も、蒼士郎の顔が石榴のごとく砕けるところを幻視したかもしれない。
                  「ほい」
                   軽い声で、蒼士郎が曖昧模糊とした拳を受け止める瞬間まで。
                   そのまま、くるりと捻った。
                   創神は必ずしも物理法則——この場合は重力に従うわけではないが、たいてい自分のつくりだした慣性には逆らえない。今回も霊体はぐるんと風車のごとく回って、屋上の床に激突した。
                   創神を慎重に観察しながら、蒼士郎が口を開く。
                  「痛くないか?」
                  「……え?」
                   問われた少女が、目を丸くしたまま、自分の身体をあちこち触れた。
                  「ちょ、ちょっとだけ、背中が」
                  「ま、暴走してるときはフィードバックも少ないしな。そんなもんだろ」
                   面倒くさそうに蒼士郎が肩をすくめる。創神ごと気絶というケースもそこそこあるのだが、少女の場合は適性があったのだろう。
                  「……先生、視えるんですか」
                  「視えずに投げられるか。お前、最近創神が発現したところなんだろ。普通、もうちょっと早めなんだが、まあ年齢的に一番いい時期にポロッと溢れてしまうヤツもいるからな」
                   固定した霊体が動き出すのを押さえつつ、蒼士郎が続ける。
                  「お前、こいつに名前をつけてやれよ」
                  「な、名前ですか。でも」
                  「なんでもいい。できたら、どこかの神話の神様が一番だけどな。なんたって人類との馴染みが長くて深い。鋳型にはもってこいだ。ああ、たいして長い時間押さえてられないから、早くしろよ」
                   青年の話がどこまで理解できてるのか、少女はあたふたと視線を彷徨わせながら、唾を飲み込んだ。
                  「……だ、だったら……トトで」
                  「エジプト神話か。悪くないな」
                   蒼士郎の指先が、煙のごとき相手の額のあたりをついた。
                  「——破城蒼士郎の名のもとに、汝を縛る。汝が依るべき神名はトト。疾く、汝の主のもとに下れ。あるがままにあれ」
                   ふう、と煙に異変が生じた。
                   たちまち一点に凝集し、相転移を起こして——神と成る。
                   蒼士郎が何十度と見た光景の果てに、小さな破裂音と同時、何かが飛び上がった。
                  「トト! トト! オレハトト!」
                   ばたばた、と翼を広げたのは、やたらと目立つ虹色のオウムであった。
                  「……なんで、オウムだ?」
                   蒼士郎がぽつりと呟いたのは、彼の知るエジプト神話のトトにも鳥の姿はあるのだが、オウムのそれとはかけ離れていたからだ。
                   すると、背後の少女がおどおどと口を開いたのである。
                  「え、え? そ、その、昔飼ってたペットが……似たような名前だったなって……」
                  「……ペット」
                   唖然と、蒼士郎が目を見開いた。
                   だが、それも数秒のこと。
                  「ま、いいか」
                   と、肩をすくめた。
                  「こいつは、お前の創神だ。精々大事にしろ。俺はそこで寝てるから起こすな」
                   茫然とした少女をおいて、青年はもう一度安眠を貪るべく、屋上の階段裏へと引っ込んだのであった。
                   おおよそは、そんな事情だった。
                   蒼士郎にしてみれば、さして記憶しておくべき事柄でもない
                   もともと、〈特区〉はある種の魔術の実験場なのだ。表向きは単なる教育奨励区という触れ込みだが、黒蓮華嬢が言ってたように、裏ではいくつもの組織の思惑が絡み合っている。
                   悠香だってたまたま発現を見つからなかったというだけで、普通なら〈管理軍〉あたりがはからっているはずだ。発現したばかりの創神使いが妙な犯罪に走って、魔術や創神の存在が露見しないよう、この〈第十三特区〉にもさまざまな仕掛けが張り巡らされている。
                   だから、何の問題もないはずだった。
                  「——あ、あの、私、七星悠香って言います! お礼に、何かさせてください!」
                   などと、少女が言い出さなければ。
                  (ああ……あまり熱心だったんで、気圧されたんだよな)
                   今更、蒼士郎は後悔する。
                   結果として、このように通いで夕食をつくってもらう生活が続いてるわけだった。


                  IP属地:广东10楼2016-02-11 12:28
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                    それは、〈第十三特区〉の湾口部地下に建造された研究所だった。
                    〈第十三特区〉に限らず、各地の〈特区〉にはそうした施設がいくつも隠されている。
                     生徒たちはおろか、ほとんどの教師たちにも秘せられた施設群。その多くは企業ビルや自治体の建設物を隠れ蓑としており、堂々と——までは言わずとも、過不足のないレベルで物資や機材の搬路を確保されている。
                     当然と言えただろう。
                     これら〈特区〉こそは現代の要だった。いまだ公表はされていないものの、今後の世界のあるべき規範を示す道標。その価値はすでに二年前の『戦争』で証明されており、一部の許された組織だけがありとあらゆる手段と財産を投資して邁進する、遙かなる夢。
                     今、その研究所のひとつが燃えていた。
                     特殊合金の隔壁が溶け崩れ、最先端科学と神秘学を融合せしめた貴重極まる機器が炎の海に沈んでいく。スプリンクラーが意味をなすような熱量ではない。自動的に集まってきた災害用ロボットさえも、ことごとくが拡散する炎波に巻き込まれ、停止していく。
                     その中心に、とある人影があった。
                     仮面をつけた、炎のような赤い髪の少女だった。
                     わずか十三、四歳にしか見えぬことも驚くにはあたらない。むしろ、とある事情からその年代にしかかなわぬ所業だった。
                     すぐそばに、奇怪な影が立ち上がっていることを、はたして何人が認識できたろうか。
                     ——創神。
                     あらゆる現代兵器を無効とせしめ、二年前の『戦争』において〈管理軍〉を勝者に押し上げた、人類の創りあげた神。いいや、もとよりあらゆる神は人間につくられたものだと考えるのであれば、新世紀の実体を持つ神と言った方が正しいだろうか。
                     だが、その加護も使い手までは通じぬはずだった。
                     不意打ちざまに、一命を取り留めた警備員のひとりが瓦礫から転がり出て、アサルトライフルを乱射したのだ。〈特区〉規格でつくられた特製の耐熱服でさえ半ばは炭化してしまっており、もはや命をかなぐりすてての片手なぐりのフルオートであった。
                     それでも十分。
                     外部と一世代は隔絶した〈特区〉の技術は、自動補正機能にGPSなどの通信を必要とせず、もはや専門的な人工知能の領域まで至っている。売り文句は〈賢者の導き〉。いささか品位のない通称だと〈馬鹿量産機〉。この環境でさえも相手をタグ付けして九十度までの角度におさめていれば、たとえ目を離していても全弾頭部を抉るはずだった。
                     自らの死の直前、少女の断末魔が重なる場面を警備員は想像して、しかしその光景は永遠に訪れなかった。
                     ことごとく、ライフルの弾丸が、仮面の少女の目の前で融解したのだ。
                    「っ……」
                     無論、弾丸が溶けるところなど見えたわけではない。
                     しかし、美しい花弁のように、オレンジ色の放射光が広がった様はそのようにしか受け取れなかった。
                    「ああ、対応型の権能を見るのは初めて? 二年前はよく使われていたんだけど。まあ、この二年間の主な方向性は、創神の理論化および量産化だったわけで、戦術運用を研究所の人員が知らないのは仕方ないかな」
                     こちらの喉は充満した熱気で焼け爛れているのに、何の痛痒も感じてないように、少女は話す。
                     続けて、炎が氷に変じた。
                    「創神形質・七貌七剣」
                     もう一度、必死に持ち上げようとした銃身が、その氷に閉ざされたのである。
                    「残念」
                     と、少女は耳打ちする。
                     はたして、彼は炎に揺らめく影を見た。
                     常人には認識できない創神の、かろうじて影だけを。
                     巨人のごとき異形。幾多の剣を手にした、恐るべき人造の『神』。
                     黒い、女神。
                    「——あなたたちなんかで、〈剣帝〉に勝てるわけないでしょう?」
                     甘い囁きとともに、彼の意識は闇に断たれた。


                    IP属地:广东12楼2016-02-11 12:29
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                      试读部分 完


                      IP属地:广东13楼2016-02-11 12:30
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                        好长


                        IP属地:浙江来自Android客户端14楼2016-02-11 13:21
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                          量还是很多的嘛


                          来自iPhone客户端15楼2016-02-11 14:17
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                            好长


                            IP属地:山东17楼2016-02-11 16:45
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